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真庭市 市制施行20周年記念誌
真庭市誕生前夜~合併の記録~
真庭の歴史
真庭市は岡山県北部に位置し、県下最大の面積を誇る自然あふれる自治体です。歴史を紐解くと、まず蒜山で旧石器を使う約3.5万年前の人々の痕跡が確認されます。縄文・弥生時代には次第に市内全域での定住が進み、古墳時代になると北房・落合で大規模古墳が出現します。平安・鎌倉時代には、湯原や美甘などにおいても中央の貴族や寺社による荘園が生まれ開発が進みます。さらに鎌倉時代になると各地に武士団が出現し、室町時代には大小の山城が築かれ、この頃までにはゆるやかな地縁に基づく村々が自治の単位として存在していました。
せんごく時代は外部からの侵攻もあり、住民にとって苦しい時代となりました。江戸時代になると勝山藩の誕生、久世などにも幕府直轄領が生まれ、山中一揆などの不幸な歴史もありましたが、概ね安定した社会が続きます。そして、この時代には農業や林業、「郷原漆器」などの手工業、「湯原温泉」に代表される観光など、現在の真庭市の原型が形成されました。明治時代中頃から国民の教育力の向上などを目的に「明治の大合併」が全国規模で行われ、真庭市域でも20余りの町村に集約されていきます。
さらに昭和30年(1955年)頃には、インフラ整備や福祉といった新たな地域課題に対応するため、より大規模な自治体を模索する「昭和の大合併」が全国で起こり、真庭市域においても9 つの町村が誕生することとなりました。
そして平成。真庭市は新しい時代に入ってきます。
合併に関する全国の流れ
平成に入り、右肩上がりの経済成長が見通せない中で人口減少・少子高齢化が進み、国・地方ともに厳しい財政状況となり、市町村を取り巻く環境は厳しさを増してきました。
そのような中、「地方でできることは地方で」という地方分権の考え方が生まれ、平成11年(1999年)に地方分権一括法が制定され、地方分権の担い手となる市町村にふさわしい行財政基盤の確立が強く求められました。
平成12年には、国より「行政改革」の視点で「日本を1,000程度の自治体に再編成する」方針が示され 、全国的に市町村合併が積極的に推進(平成の大合併)されるようになりました。
合併への機運
明治・昭和の合併により誕生した9 町村は、それぞれ農林業や商業、観光産業等で発展し、歴史あるまちづくりを進めてきました。
また、町村間で広域的な行政の取組も進められ、真庭広域連合(平成13年2 月設立)による消防、介護保険事業(一部)、一般廃棄物処理など一体性のあるまちづくりに取り組んできました。
しかし、国からの地方交付税等の削減などによる財政力の低下などが進み、住民サービスへ充てる財源の不足が予測される中、少子高齢化への対応、多様化する住民ニーズヘの対応、地方分権への対応など社会状況の変化に対応できる環境が必要となってきました。
それらの課題を地域が力を合わせて解決するため、「合併」の機運が高まりました。
合併で求めるもの
合併では、住民アンケート等により主に以下の3項目を求めるものとしました。
・合併することにより、重複した機能をスリム化し 「行政改革」を図る。
・「対等合併」とし、町村格差の是正を図る。新し い市として1つにまとまるためには、市民の早期の「一体感醸成」が必要である。
・真庭圏全体の「大型合併」により、新たな人材・産 業を育て、「産業振興」を図ることで地域を豊かにする。
合併までの流れ
合併の経緯
平成15年(2003年)3月に中部と南部の5町1村で「真庭地域任意合併協議会」が設置されましたが、平成15年5月の協議会にて北部の町の加入是非について、各町村の意見が割れ、活動休止となりました。その後、平成15年8月に新たに北部・中部の7町村による「真庭地域合併協議会」が設置され、平成15年11月の「第6回協議会」にて南部2町が加入することにより9町村による合併の枠組みが決定し、その後9町村による合併に関する協議が行われました。
協議会等での議論の他、平成15年9月〜11月には、「住民アンケート」を実施し、平成16年4月と7月〜8月には、延べ18会場で「住民説明会」を開催し、住民からの意見を伺いました。それらの意見を合併協議に反映させ、関係者による多大な尽力を経て、平成16年8月28日に「合併協定書」の調印を終え、平成17年3月31日に「真庭市」が誕生しました。
合併協議
合併までの間に、「合併協議会」は18回、「幹事会」は32回、調整会議は232回開催され、多くの課題解決の議論が行われました。特に住民の関心の高かった内容である、庁舎の場所は「分散型」とする、議員定数を112人から40人とする、町名は旧町村名を表示しないことで統一する、地域づくり委員会を設置することなどでは活発な議論が展開されました。
これらの協議を通じ、この合併は9町村による大型の「対等合併」であり、市民による早期の「一体感醸成」が必要であることが強く確認されました。
インタビュー
いけだ まさゆき 元湯原町議会議長
「9町村の対等合併が基本理念でした」
合併までのいきさつに詳しい旧湯原町議会議長のいけだ まさゆき氏に、当時の様子をお聞きしました。
─市町村合併については平成10年(1998年)頃 から全国的に話が出ていましたが、湯原ではど んな話が出ていましたか。
最初はよその世界の話のようで、湯原町がなくなることが想像できなかったですね。湯原温泉の知名度もそれなりにあり、やり方によっては、なんとか単独で生き残れるという雰囲気が大勢を占めていたと思います。他の町村もそんな感じでした。
新時代への対応
─単独で生き残るのではなく合併に方針が固まったのは何故ですか。
最初に役場のほうから財政的に苦しくなるという課題が出ました。地方交付税の削減という話や、合併した自治体には合併特例債という有利な起債(7割弱が交付税として返ってくる)が借りられるという話、いわゆるアメとムチの話は大きかったですね。それ以降、近隣の自治体も合併を模索するようになりました。
湯原町としても、過疎かが進み、また観光事業も団体から家族へとお客さんのニーズも変化しており、執行部・議会としても新時代への対応のため合併を本気で考えるようになっていきました。
─合併協議会へ参加した思いをお聞かせください。
いろんな選択肢を検討しましたが、想いとしては、人口差などで合併の形を考えるのではなく対等の合併、湯原の個性を生かせる合併ができればとの思いで湯原町として合併協議に参加しました。池田町長、議長であった私と民間のかた3人が合併協議会に委員として参加しましたが、しっかりその思いは伝えました。
小異を捨て大同につく
─合併協議が、発足時の7自治体合併から9自治体合併へと変化しましたね。
自治体の規模にかかわらず対等合併という基本理念は確立されており、途中から協議に加わった自治体も十分理解されていました。また、協議に参加してみて、他の自治体の事情、課題、目指している目標などに直に触れることになりました。やはり多様な真庭は助け合わなければならないと感じました。そして、なによりも大きかったのは、協議会会長の藤木ひろし(当時の久世町長)さんの存在だったですね。非常に器の大きい方で「小異を捨てて大同につく」「来るもの拒まず、去るもの追わず」という会長の理念をみんなが少しずつ理解していきました。藤木さんの功績は大きく、今日の真庭市の礎をつくった気がします。
─これからの真庭市に期待することは何ですか。
真庭市誕生時には、私も議員として参加しました。議場に新議員40人が集まった時には、新時代が来たと感じました。ラストワンマイルのような旧町村規模ではできなかったような事業も実現していきました。すべてが挑戦で、議会も真剣に議論しました。ただ職員さんの中には、新時代にとまどう方も見かけましたが、ほどなく対応されていきました。つらい思いも新時代の生みの苦しみだったのかもしれません。
真庭市になって思ったのは、広大な土地であり、市の北地域には雪が残り、南地域には菜の花が咲いているという日本を縮図にしたような市だということです。これから20年、50年、100年先も生き残れるよう「脱地域消滅」に挑戦し、バイオマス産業都市とSDGs未来都市に向かって頑張っていただきたいと思います。
